古市幸雄『一日30分を続けなさい』→テレビ見る時間頻度を減らす
2020年1月末ライブ、楽しむためには準備が足りなかったかな。
誘いには何でものるという主義できたけど、見直し減らす時期が来たのかしら。
守破離の破!?
古市幸雄『一日30分を続けなさい』(2017) kindleで読了
以下「」内の文章は、書籍から引用と一部意訳した文になっています。
「現在のあなたは過去の蓄積(自己投資)で収入を得ている」
「自己投資の大半は必ずリターンとして返ってくる」
「だから、自己投資しておかないと!」
という主張は今の自身をふりかえると非常に頷ける。
リターンの恩恵は大きい。
今の働き方(有難い)は6年前の行動があったからだもの。
そう考えると今は、今後のための自己投資の仕方に悩んでいる。
身体的なものに関してはいい感じなのだが(筋トレなど)。
知的な自己投資の手法は2つ。
専門性を高めるものと自由度を高めるもの、つまり研究力を高めることと起業をすることと考える。
時間を捻出する方法に関して、
「テレビを見ないこと」
「仕事の処理時間を先に決める」
前者は日記と連動させて向き合う。
今は特にこれは見たいというものないしね。
後者は今もたまにできているが、より正確に設定できるよう、仕事を始める前にその内容と所要時間を見立てよう。
これまでも、遅くなってやっても体感で7割の完成度だったので、速くて5~6割の完成度でよしとしようじゃないか。
「脳の行動パターンは非常に単純です。1.痛みを避ける2.快楽を得ようとする」
この通り!
常に、楽に、ちょっとしんどそうなことを避け続けようとする本能!
自分にとってしんどいと感じ逃げたくなる、あるいは効率よくできる!、はさまざまだから、その両方の感情も記録しておいて、
例えばやりたいことをできた時はそれがなぜだったかを認識する。
例えば、今日、仕事後時間空いた。寒いし帰ってだらけようとも思ったけれどカフェ入って本読み始めたら、めっさはかどったよ。
読みだしたら内容に引きずられ、感想を書き出すというアウトプット!
やろうと思っていたことができたよ。
つまり、楽に流れる前に、環境を変えて気持ちが上がる言語に触れるよう仕向けられた。
もし環境代えても気持ちが変わらないならやらなくていい。
とする。
「結局、英語を上達させる方法とは、車のドライブに例えると、
1.行き先を決める(目標の英語力を決める)
2.ルートを決める(勉強の仕方や質を決める)
3.アクセルを踏む(日々勉強を続ける)」
これしかない。
これは身に染みている、超重要。
これまでも今も、いろんなツール活用して、大きな目標を設定して、何となく良いだろうという行動をとり続けてはいるつもりだったけれど、
ルートを決める(目標達成の仕方や質を決める)部分がかなりぼやけており、
かつアクセルも弱かった。
長期中期短期にして、目標とその達成方法を手帳に書きだすが良いかな。
「でも、どうして目標を紙に書き、毎日読み返すことで目標の実現スピードが加速されるの でしょうか?私なりの解釈で説明します。人の行動の大半は無意識(潜在意識)が操っています。無意識が行うことというのは、 簡単に言うと、 あなたが気付いていない習慣や癖の ことです。つまり、あなたの日々の行動パターンのほとんどは、あなたの知らない間に無意識が勝手に行っているものなのです。そして、あなたの習慣はどのように形成されたかと いうと、あなたの親や周囲の人間から長年繰り返し送り続けられたメッセージによって、いつの間にか無意識にプログラムどおりに行動しているに過ぎません。…中略
今度は本人が無意識にメッセージを繰り返し送り続けることで自らプログラムを書き換えればいいわけです。ですから、書き出した目標を毎日読み返すことが大切なのです。」
この通りだけれど、先述したように目標だけ見ても、そこにつながっていかない感がつもると見るのが億劫になってしまう。道標をつくり、今の進度を計量化する工夫が必要だ。
読了して、やってみると決めたこと
・テレビ見る時間頻度を減らす
→基本つけない。
→見たいものを挙げてその時間だけ見る…特に見たい、というものは、強いて挙げれば
「ユーは何しに日本へ」「ニュースウォッチ9」かしら。
・ようつべダラ見時間を減らす
→見たい、活用したいことを挙げそれだけ視聴する。
→ワクワクするor有効と感じる知識が得られるものを通勤時に
・仕事の処理時間を先に決める
→手帳にタスクと時間を書き出す。無茶な時間設定にしない。なるべく細かくする。
・本能に流されない
→流されそうになったら一旦環境を変える。道標を読む。それでも流れたければ全力で楽しんで流れる。
・ルートを定める
→目標をどう達成していくか、情報を集め、具体的に週・月単位で達成課題を手帳に書き出す。
イチブとゼンブ(ソーシャルワークの視点)
E先生と話し合える時間がとても有意義だ。
本日も斜め向かいから、業務から海外の修学についてなどさまざまな話をした。
その中で、咀嚼していきたいことを記録する。
・ソーシャルワークは部分と全体を捉え、紐解くことである
部分とは、利用者であり一人の地域住民であり、何か課題を抱えたとき、その解決や向き合い方には全体を捉える必要がある。全体とは、利用している施設全体であり施設がある地域社会である。その施設で暮らす利用者が抱える課題の背景がどのようになっているのか、施設全体からみたときにどのような問題といえるのかを見ようとしなくてはならない。地域住民の抱える問題を地域全体からみることも同義。
・ケアワークは一部、ソーシャルワークは全体を捉えるもの
一人の地域住民が、足を痛め買い物に行けなくなり困っていた場合。その買い物部分を補うのは訪問介護や個別支援、痛めた部分については医療(看護、リハ)、その人の地域での生活から見て、支え合うための話し合いの場を設けるなどするソーシャルワークの視点といえる。
・その実践には視点と枠組みをもつことが必要
「地域住民」の立場から、「ともに考える」という視点と、枠組み例として要素要件を整理しつつ足りないものを構築していくファシリテーションが、一部と全部を行き来するために必要となる。ただし前提としてソーシャルワーカーが所属する法人の理念や方針に拠ることになる。
・全体をとらえる力とは大きな目的を見据えること
野球チームのキャッチャーやサッカーチームの司令塔は試合中、常に敵味方チームの個々、守備体系等フィールド全体、試合展開に目を配る必要がある。その瞬間その瞬間の1対1の戦いに勝つように全力を尽くすだけではなく、その結果を全体の中でどう捉え、いかにして最終的に勝利するか、肉を切らせて骨を断つのかが求められるのである。
・ソーシャルワーカーの視点
ソーシャルワーカーの視点とは、一部と全部、つまりクライエントの抱える課題や問題を利用者視点から、暮らす環境や地域社会をつなげて捉え、クライエントとともに考えていくということである。
+私にとってのBig Whyとは
今日という一日の中で、例えばこの渋滞(車での通勤時)でどう過ごすことが大事か、それによってその後の時間にどう影響するか。そして、週の中での今日、月の中での今週、一年の中の今月、と鳥瞰していくとつまるところ何をなし得たいのかということにつながっていく。
一部と全部を高速で行き来できるようになれば、些末なこと(一部)でイライラせずに切り替え、その日その週その月その年(大きな目的)に思いを馳せるチャンスタイムとなり候。
写真は今年度始めた催し物で上手くいかなかったなと感じた日に撮ったもの。その催し物全体からすれば、少なくとも私にとっては必要な「上手くいかなかったこと」であった。その省察は主に準備だ。
・具体化
・タイムマネジメント
・構造化
完璧ではなく、自分にとっての重要ポイントひとつをまずは見つめよ
「すべて知るのは到底無理なのに 僕らはどうして あくまでなんでも征服したがる カンペキを追い求め 愛しぬけるポイントがひとつありゃいいのに」
失ってわかること、減らしてわかること
業務が一区切りしたため机を片付けた。
要るかもしれないと思ってとっておいたものの、ほとんどは要らない。
無くて困るものはほとんどなかった。
「減らす」ことを意識していきたい。
整理整頓が苦手で、机は常にきれいではない。
そのことにうっすらとストレスを感じていたのだと、片付けた後に気づく。
その後の気分の良さによる仕事の効率を考えると、机上には基本余計なものは何も置かないというマイルールを設けたい。
車もそうだ。
洗車して、フロントガラスも綺麗にすると車も喜んでる気がする。
通勤も気持ちがいいから積極的な思考も宿る。
メガネなんかは汚れててもなかなか自分では気づかない、目の機能はきっと何とか調整しようとする。
メガネの汚れは外して拭くときに気づく。
自分の思っていることや顕在意識なんかもそうだろうな。
日々の、何となく気になっていることや、やりたいなと思っていること、これらに気づくには、「手帳やノート」と「何もしないでいい時間」だと思う。
書き出せばわかる。どんどんとやりたいことが筆を走らせてくれる。
一方で、日常生活の中で圧倒的に読む、見る、聞く、、、特にネットのだら見かな、が多く、考えて表出することの爽快さと重要性を痛感するのだ。
こういった時間を天引きしてつくっていけば、生活は変わるだろなー。
時間を確保して、
不安は消えるし、視界は晴れる
ちなみに写真は先日、提出物が郵送では間に合わなく直接提出しに行った際の駐車場を覚えておくために撮ったもの。
段取り力の無さを身に刻み、前倒し筋を強めてくれる。。。
交通費で約8千円。
失ってわかること、減らしてわかること。
活かしていきます。
私を動かすのは利益or恐怖でなく、問いだった
長らく、やらなきゃいけないこととは裏腹に、しなくていいことをせっせとし続けていた。
そこには心身のラクさと並行して罪悪感があり、
この時間の積み重ねに意味はないことをわかっていた。
いろんなことを試して、3~4年前に頭ではわかっていても体得できなかったことが痛感できてきた。
長きに続いた「このままじゃいかん感」からサラバ!
約5年前に修士課程を修了した。
今振り返ると、自分自身がどういう傾向があるのかすごく顕れていたんだなと思う。
論文執筆の各段階で、やらねばならぬことを気にかけつつ、それに集中するのはいつも土壇場のギリギリであった。
心の隅には常にもやもやがあり、でも真正面からは向き合えず、それを認めるのも難しく、何とも苦しい日々だったな。
その後も流れに身を任せて進んでいって、本当に最近まで苦しさを抱いていた。
しかし最近読んだ本で、その原因と対策がわかり、1日の過ごし方も変わった。
著者の平岡俊晴さんにはただ感謝です。
修士課程時代から続く苦しみとは何だったんだろう。
以下、平岡さんの著書の一節を用いて考えています。
思えば「 身口意(しんくい)の一致で宝の扉は開かれる」(空海が広めた密教の教え)でいうところの、「身」がとにかくついていかなかったのが苦しみの要因といえる。
身・・・やっていること。行動していること。
口・・・言っていること。言葉にしている思考。
意・・・想っていること。心で意識していること。
空海はこの3つを一致させると、あらゆる願望は実現すると説いているとのことですが、実際にはこの身口意はバラバラで一致していないことが多い。というか私はずっと「身」が伴わなかった。
潜在意識化に根付いている「私」が無意識に行動してしまう習慣やすぐに頭をよぎる思考というものに、意識を向けることができなかったから。
やるべき、やらなくてはならない、もちろん必要性も理解していたはずではあるが、追い込まれないとすすまなかった。
何が変わったかというと、シンプルに日々「自分に何を与えられるか」を自らに問いかけることが、継続してできるようになったことを挙げることができる。
その日に私は自分に何を与えられた?
例えば体に良いものを適量摂れたか、与えられたかという問いが常に頭にあると、お腹が空いてるとき、メニューを決めるとき、食べているとき意識化され自分にとって本意の意思決定、選択することができる。
なりたい姿に必要な知識を与えられたか、必要な実績のための時間を与えられたか、ネットサーフィン、マンガのだら見が自分に与えるべきことなのか、時間なのか、
自分を大切にするということは何を自身に与えているか、それを選び取っているか、その視点を、自分に問うことで意識化できるということを知った。
すると驚くほど「身」であるやっていること、行動が変わったんです。
問いが自らを律してくれているともいえるけれど、いずれこの問いも無意識化していけるでしょう。
身口意が一致していると心が軽いし、やっていることが楽しくなる。
今から5年前にさかのぼる、
修士課程から続いていた、そして常に心のどこかで思っていた「このままじゃいかん感」からサラバです!